A君のその時の気持ちを答えろ。とは何か。

ある時、中学受験の国語の問題を読んでいるとき、

ふと疑問に思ったことがあり、その疑問は今も疑問のままである。

 

疑問に思うのがおかしいことだということが、

自分でも理解できるぐらいには、当然のことであり、

当然であるからこそ、この疑問への回答は用意されておらず、

今もこの疑問が解決されていないともいえるだろう。

 

その疑問が何であるかについて、

前置きがこれ以上長くなる前に明かそうと思う。

 

「下線部Aの出来事が発生したとき、A君はどのような気持ちであったか。

 次の選択肢から正しいものを選べ。」

 の様な形の問題に正答は存在するのだろうか?

 

という疑問である。

 

そもそも、

このような問題に使用される文章は大抵が、

どこかの小説の一部分を問題文として採用している。

 

私が初めてこの疑問を持った年代の中学受験で言えば、

あさのあつこ 氏 の 「バッテリー」だとか、

重松清 氏 の 「日曜日の夕刊」だとか、

である。 

 

この問題で、

私が取り上げたいのは、

そもそも、「感情」に「正解」はあるのか。

という問題だ。

 

考えても見てほしい。

私たちが生活を送る中で、

「世間体」であるとか、「見栄」であるとか、

感情をそのまま表に出すにあたっては、

様々な障害が存在する。

 

誰が腹が立ったからといって、

学生ノートを持ってくることを忘れた学生を平手打ちするだろうか。

 

誰が廊下に立たせた子供が勝手に移動したからといって、

食事を与えずに夜遅くまで外に立たせるなどするだろうか。

 

仮にいたとしても、そんな人たちはごく一部の人たちであり、

事実が明るみになれば問題となり、

休職や、逮捕、など、その行動に見合った処罰を受けることとなる。

 

 

感情に任せて、その感情を一度自分の中で咀嚼することなく吐き出すこと。

そんなことを行うことは、現実的にはあり得ないのである。

 

であるにもかかわらず、だ。

小説問題においては、上記のような問題が多く出題され、

感情を作品の登場人物の行動などから推測することが求められる。

 

果たして、この回答の正答とは、何だというのだろうか。

 

そもそもである。

問題の制作者は、小説の作者とは同一人物ですらない。

小説の作者が、

どのような意図でその作品を書いたかすら、知りえるはずがないのである。

 

表向き作品を読めば筆者の意図を推測することは可能かもしれないが、

それは、筆者の本当の意図であると確定できるわけではないし、

問題製作者の推測に過ぎず、

それを問題の回答として設定するのであれば、

正答しようという目的で問題を解くとき、

回答者は問題製作者と同様の推測を行い、

回答として同じような理解をする必要がある。

 

もちろん、そのような推測が多くの読者の中で、

共通認識として考えられるような一般的作品において、

そのような問題を出すことで、一般的感覚を養うことは可能かもしれない。

 

しかし、これはある種、

様々な読み方を否定し、

同一の考え方、思考回路を要求しているのではないのか。

多様性を許さないことが基盤にあるのではないか。

 

人の感情は多様で表し方も多様であるから、

感情は推測しかできない、

大切だけれども、大切であるがゆえに、

空虚で意味のないものだと思っているからこそ。

 

私はこのことを疑問に思わざるを得ないのである。

 

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