日本の総理、小学6年生並みで情けない。 枝野さん!まずいですよ!

日本の総理、小学6年生並みで情けない。

 

この言葉がニュース記事となった時、私は、政治に対する恐怖より、

与党支持の危うさより、日本の将来に対する不安より、

何よりも先に枝野さんの品性を疑った。

 

以前の記事にもしたように、安倍総理の。

「悪夢の民主党政権」という発言は確かに幼稚だということができ、どうかとは思う。

 

しかし、この小学6年生並みという発言も同様だと思うのだ。

 

それだけではない。悪夢の民主党政権という比喩においては。

民主党員の方々しか対象になっておらず。

小学六年生を貶めることはしていない。

 

その意味で枝野さんは同類以下に落ちてしまっています。

 

それだけではありません。

その小学6年生並みの政権から政権をとれないということは、

自分達か、現政権の支持者を貶めているのです。

そんなのに投票して当選させてしまったってことになるわけですからね。

 

 

自分たちが足りてないか相手に投票する人が悪いってことになりますから。

 

政治やっててそんな言い分ってあります?

ハッピーバレンタイン‼‼ とか言ってたらsyamuさんが。。。。

ハッピシンセサイザ♪ ラララララララ♪

なんて言いまして。

今日はバレンタインデーですね。

チョコは一つたりとも! もらえませんでした!

チョコ0個!

 

とかいう小ネタを考えてる間に、

オフ会0人で有名なYoutuberのsyamuさんが、

誘拐されて問題になってて、

笑おうかと思いましたが、誘拐って笑えませんよね。

 

まぁ私みたいな孤独人であれば、

同じように誘拐されそうな気がしなくもないですが。

 

孤独な人って、不器用な人って、

助けてくれる人をとにかく信用するんです。

 

ほんとこういう事件なくなってほしい。。。

スカーフライボルトのすゝめ。

Pokemonの考察なんて偉い人がしてくれるさ、と。

レートが低い私は日々思いながら、

怠惰に好きなポケモンで、適当に対戦をしてきた。

 

その中でカプ・コケコの対処に苦慮していたため、

今更ながら対策を考察してみることにした。

 

結果行き着いたポケモンがいる。

これが、スカーフライボルトである。

 

特性の避雷針で、

カプ・コケコの電気技をカットしつつ、

ボルトチェンジを採用することで、

サイクル要員として仕事ができるだけでなく、

めざ氷、めざ草を選択採用することで

めざ氷であれば、

カバルドンのようなポケモンへの、

削る打点の確保が可能。

めざ草であればヌオーのようなポケモンへの、

削る打点の確保が可能。

オーバーヒートを採用することで、

火力は足りないながら、

ある程度の上からの圧力としては役割を持てる。

 

個人的には最後の1枠は自由枠で、

@1という形もありだとは考えているが、

すりかえの採用を提案したい。

 

Zやメガの増加によって、

確かに打ち所は難しい技になってしまったが、

受けループのラッキーへの交換に対して、

すり替えてあげることで、

きせきをとりあげスカーフを渡すことができ、

機能停止させることができたりなど、

案外打つ場面が多く、採用の価値有りかと思う。

 

ただ、メガ進化をせずスカーフを持たせたことで、

火力、耐久、共に心もとない。

そこを理解した上でサイクル要員として

採用されてみてはいかがだろうか。

 

悪夢の民主政権とか言っちゃダメでしょ。

多少暴言臭くなるが、一応書いておこうと思い筆を執った。

安倍総理!悪夢の民主党政権とか言っちゃだめですよ!

そもそも民主党とか言う党は今存在しないわけで、

過去のものにすぎないわけです。

 

確かに、犯罪行為に及んでしまった方々とかが、

裁判を経て罪を償っても、

それ以後も延々と罪を悔やみ償い続けなきゃいけないのは事実ですし、

政治の世界もそれと別だというのは、

ちょっと間違いといっていいと思いますけど。

 

別に、

民主政権が悪かろうが、自民政権が悪かろうが、

それは国民が選んだ結果政権を持っているわけです。

 

だから国民は、

○○党支持して失敗だったなぁとか、××党選んで失敗だったなぁとか、

思う事はあると思います。

 

自民党の党員が言っちゃいけないとかそういう事でもないですし、

政治家も人間であり国民の一人だっていうのもわかってます。

 

でもね。政治家は当事者だと思うんです。

 

批評される側であってこそ、

自分と意見の違う方々が選んだ、選ばれた時の政権を、

事実に基づいて分析して、改善案を提示しこそすれ、

批判はしちゃだめだと思うんです。

 

現在の野党の方もですよ!

退陣要求とか批判だけじゃなくって、

ちゃんと対案を出したり改善案を出したり、

建設的議論お願いします。

 

ただね、最後にもう一回いいますけど、

安倍さん。

過去の政権をそんな表現で表現するのは議員としてダメ。

ほんとにやっちゃいけないことだと思います。

そこは反省してほしいところだと私は感じています。

 

中の人 とは何か。

ニコニコやYoutubeのゆっくり実況投稿主などに対して、

編集者の人格や性別を問うような形での呼称として、

編集者や投稿者のことを、

ゆっくり実況のキャラクターを指すときに使われた表現として、

特徴をとらえた形で、「○○の人」のような表現とは、別に、

「中の人」という表現で編集者及び投稿者を呼称した時代がある。

 

vtuberにもその流れが来ていることについて、

最近思う事ができたので少し語りたく、こちらの記事を書いている。

 

vtuber が好きな方ならご存じだろうが、以下にその例を挙げる。

 

1、「輝夜月」さん

vtuberに詳しくない方やポケモンに詳しい方が、

読み間違ってはいけないので、改めて書いておくが、

かぐや るな さんである。

この輝夜月さん。

niconico動画で活動されている「mega」さんが、

MAD動画的なものを歌ってみられた様子が、

恐ろしく本人に似ていたこともあり、中の人説も浮上したが、

結局のところ中の人は「P丸様」さんだといわれています。

 

2、「織田信姫」さん

先ほど紹介した「mega」さんが中の人だといわれているvtuberさんです。

実際に動画を見比べると反応がすごく似ているので、

何というか。。。わからんですけど中の人説は事実なんだろうなぁと思っています。

 

と、とりあえず2例紹介しましたが、

どちらも、事実でもどうでもいい気もしませんか?

中の人が誰だろうと「vtuber」さんという存在が、

私たちを楽しませてくれていることは事実なわけですし、

中の人を詮索することに、

いったいなんの意味があるのかわからない気もしてきます。

 

ですが、意味があると感じる人には意味はあるのです。

考えました。

 

私たちが生きている世界の中で、

vtuberの皆さんも同じように生活をしています。

そう、「中の人」は。

vtuberというモデル自体は電脳世界の架空の存在で、

結局は「中の人」がバーチャルリアリティの世界で生きるために、

モデルによって受肉され、その被り物の中に中の人がいるにすぎません。

 

生々しい話にはなりますが。

vtuberとしての配信の収益化と投げ銭で生きることは

売れているvtuberであれば確かに可能です。

 

ですがそんなvtuberさんでさえ、

飯を食わなければ死んでしまう一人の人間であることは間違いないのです。

そう考えたら、確かにvtuberとしての側面だけより、

人間味を帯びた部分も少しは知りたいと思うのは普通だと思いませんか?

 

vtuberという仮想現実の世界に生きているものを娯楽として楽しみながらも、

私たちはどこかで、人間味を帯びたものを求めているのだと思います。

 

人間っていいな。

 

 

生きることが嫌になってネットに逃げる若者、だとか、

現実逃避してネットに引きこもる若者、だとか、

最近の若者は言われることがありますが。

 

そんな若者たちもどこかで、

そう思っているのかもしれませんね。

A君のその時の気持ちを答えろ。とは何か。

ある時、中学受験の国語の問題を読んでいるとき、

ふと疑問に思ったことがあり、その疑問は今も疑問のままである。

 

疑問に思うのがおかしいことだということが、

自分でも理解できるぐらいには、当然のことであり、

当然であるからこそ、この疑問への回答は用意されておらず、

今もこの疑問が解決されていないともいえるだろう。

 

その疑問が何であるかについて、

前置きがこれ以上長くなる前に明かそうと思う。

 

「下線部Aの出来事が発生したとき、A君はどのような気持ちであったか。

 次の選択肢から正しいものを選べ。」

 の様な形の問題に正答は存在するのだろうか?

 

という疑問である。

 

そもそも、

このような問題に使用される文章は大抵が、

どこかの小説の一部分を問題文として採用している。

 

私が初めてこの疑問を持った年代の中学受験で言えば、

あさのあつこ 氏 の 「バッテリー」だとか、

重松清 氏 の 「日曜日の夕刊」だとか、

である。 

 

この問題で、

私が取り上げたいのは、

そもそも、「感情」に「正解」はあるのか。

という問題だ。

 

考えても見てほしい。

私たちが生活を送る中で、

「世間体」であるとか、「見栄」であるとか、

感情をそのまま表に出すにあたっては、

様々な障害が存在する。

 

誰が腹が立ったからといって、

学生ノートを持ってくることを忘れた学生を平手打ちするだろうか。

 

誰が廊下に立たせた子供が勝手に移動したからといって、

食事を与えずに夜遅くまで外に立たせるなどするだろうか。

 

仮にいたとしても、そんな人たちはごく一部の人たちであり、

事実が明るみになれば問題となり、

休職や、逮捕、など、その行動に見合った処罰を受けることとなる。

 

 

感情に任せて、その感情を一度自分の中で咀嚼することなく吐き出すこと。

そんなことを行うことは、現実的にはあり得ないのである。

 

であるにもかかわらず、だ。

小説問題においては、上記のような問題が多く出題され、

感情を作品の登場人物の行動などから推測することが求められる。

 

果たして、この回答の正答とは、何だというのだろうか。

 

そもそもである。

問題の制作者は、小説の作者とは同一人物ですらない。

小説の作者が、

どのような意図でその作品を書いたかすら、知りえるはずがないのである。

 

表向き作品を読めば筆者の意図を推測することは可能かもしれないが、

それは、筆者の本当の意図であると確定できるわけではないし、

問題製作者の推測に過ぎず、

それを問題の回答として設定するのであれば、

正答しようという目的で問題を解くとき、

回答者は問題製作者と同様の推測を行い、

回答として同じような理解をする必要がある。

 

もちろん、そのような推測が多くの読者の中で、

共通認識として考えられるような一般的作品において、

そのような問題を出すことで、一般的感覚を養うことは可能かもしれない。

 

しかし、これはある種、

様々な読み方を否定し、

同一の考え方、思考回路を要求しているのではないのか。

多様性を許さないことが基盤にあるのではないか。

 

人の感情は多様で表し方も多様であるから、

感情は推測しかできない、

大切だけれども、大切であるがゆえに、

空虚で意味のないものだと思っているからこそ。

 

私はこのことを疑問に思わざるを得ないのである。

 

ご意見ご感想お待ちしております。